青凜館の入り口には、塾のパンフレットを設置しています。なくなっていたら向きをそろえて補充するのですが、たまに誰かが手に取ったのでしょうか、表裏が反対に置かれているのです。きっとなんだこれと思って手に取ってはみたものの、必要ではないからそのまま元に戻したのでしょう。しかし、向きが逆なのです。本屋さんでも、洋服屋さんでも、「なんでこの商品がここにあるの」ということがあります。おそらくはもとの位置に戻すのが面倒くさいから、だれも見ていないことをいいことに適当に放置するのでしょう。
先日ある塾生が、本棚から塾の辞書を借りて調べ物をしていました。使い終わった後、本棚を見て見ると、辞書の前後が反対にしまわれているのです。ほかの辞書はすべて箱の入り口が手前を向いているにもかかわらず、その辞書だけは逆に置かれていました。私は思いました。「なぜ一つだけ逆になっていることに違和感を感じないんだろう」と。私だけが細かい人間だからそのように思うのではありません。並んでいる辞書を見たほとんどの人は私と同じように考えるでしょう。
また別の日には、トイレを使用した後、トイレットペーパーがだらんと垂れ下がっていました。垂れ下がっているのが5センチ程度であれば何も言いませんが、下に設置している予備のトイレットペーパーを完全におおってしまうほどの長さがありましたので、写真で証拠を残しておき、後日その写真を本人に見せながら諭しました。これも先のできごとと同じで、その垂れ下がったトイレットペーパーに違和感を持つべきです。友達の家に遊びに行って、トイレを使用したときに、今回と同じ状況であれば、相手方は良い気持ちはしないかもしれません。
しかしながらこの生徒がとりわけ大雑把というわけではなく、中学生の男子の多くは同じようなふるまいをします。「内」の自分と「外」の自分が同じで、使い分けることができないのです。自分の中にスタンダードが一つしかないため、「外」の環境であっても、「内」の振る舞いをしてしまうのです。それに引き換え、女子は使い分けが上手な子が多いです。「内」の自分と「外」の自分を使い分け、「内」では大雑把であっても、「外」では丁寧に取り組めたり、細かな配慮があったりします。よく、女子はすぐ態度が変わると言われますが、それはただ単に自分の中にスタンダードがいくつかあり、時と場合をによって標準を変えているだけなのです。ゆえに男子には「外」での振る舞いを身につけてもらうため、塾での様子を細かく指導をします。
学習塾ですので、成績を上げるというのが最大の仕事なのですが、子どもとかかわっている以上、その子の将来をより良くさせる責任も負っているつもりです。その子が大人になったときに他人に失礼の無いようにであったり、困難に直面したときにどう解決するべきかであったりを、一人の大人として子どもたちに話していく義務があると思っています(子どもの未熟な部分に対して、大人が教育を施すということは当然のことです)。そして、細かいことに注意を払えること、考え方の次元を上げることが、子どもたちの学力にもつながってきます。青凜館において私からグチグチ言われたくなければ、言われなくてもいいように自分を変えていくしかないのです。