一種の反語表現で、日本語に訳すと、「冬来たりなば、春遠からじ」となります。大意は「寒さの厳しい冬がやってきたなら、春はもうそこまでやってきている」となり、そこから転じて「つらい時期を踏ん張れば、成功がやってくる」という意味で使われます。
そもそも辛くない勉強はありません。特に勉強の初めのころは、知らないことばかりで負の倦怠感に覆われるものです。そこを切り抜けたとしても決して平坦な道にたどり着くことはなく、ずっと起伏の激しい道を進んでいくこととなります。また、入試問題に相対すると、「本当にこの壁を打ち破れるのだろうか」というひどい絶望感に苛まれることもあります。ですので、学力に低い子は問題文を読もうとしません。読んでも設問の意味が理解できないといったほうが正しいかもしれません。ある程度の学力がある子でも、設問の意図を正しく読み取ることができません。子どもたちは、簡単な言葉ばかりに触れており、難しい言葉、意味を取りにくい言葉を避けるからです。
以下の文章は先日行われた京都府の高校入試問題です。
「その一方で、どのような対人関係においても、今日の関係性が、昨日までの関係性の歴史の上に築かれているということには、疑う余地がないだろう。ある関係性において共有されている意味の体系は、暗黙のうちに、そこに属する個々人の認知や行動をその体系に即したものへと方向づける。また逆に、個々人が特定の意味の体系に添った認知や感情を生起させたり、行為のやり取りを繰り返したりすることによって、その関係性は予言の自己成就的(注:人は、たとえ根拠のない予言であっても、予言通りの結果となるような行動をとる傾向があるということ)に守られ、再生産されていく。」
中学生であれば、面倒くさいなと思ったでしょう。以前、筑紫女学園高校の入試問題を取り上げましたが、国語の文章は「とっつきにくく、分かりにくいもの」だという前提で読まなければなりません(そういう意味では、昨年の福岡県の文章は簡単でした)。社会が分かりやすさを求めているのとは違い、入試に分かりやすさなどありません。分かりにくいものを見たうえで、「自分は分かっています」ということを解答用紙に表現するのです。であれば、「分かりにくい」ものに対するストレスを許容しなければなりません。分からないことはストレスとなります。分からないことから逃げれば、もしくは簡単な問題ばかりを求めればとても快適です。でも、分からないことを分かろうとしなければ、子どもの可能性はしぼんでしまいます。逆に、分からないことを分かることに変えていけば、可能性は大きく広がることとなります。
「冬来たりなば春遠からじ」には、「つらい時期を踏ん張れば、成功がやってくる」という意味があると先に述べましたが、これにはもう一つの見方があります。「成功を収めるためには、つらい時期を乗り越えなければならない」という見方です。まず目的があり、それを達成するためにどうすればよいかを考えるのです。往々にして、学力が高い子ははじめに「目標・目的」を設定して、そこから逆算して「今何をすべきか」を考えることになります。ですから必要なことであれば多少のストレスは許容できるのです。それに対して、現在から未来を見ているとどうしても、「今がよければ」という発想に落ち着くため、目的には遠く及ばない結果になるのです。そしてそれは子どもを指導する立場にある学習塾も同様で、「生徒が塾をやめないように」や「子どもが楽しく通ってくれるように」などと、「直近の利益」ばかりを追求し、子どもに厳しさを示すことができないのであれば、最後に苦しむのは子ども自身であることを自覚するべきなのです。