塾の責任者として、私は塾生の学力を誰よりも知っている自信があります。授業中の問題を解くスピード、ミスの多さ、小テストの合格率、質問に対する反応度合いと正確性など、あらゆる情報から学力を把握し、「この子はこの問題は解ける」、あるいは「この子には難しいから誘導しながら進めよう」もしくは「この問題を解かせると混乱するから、今は回避しよう」などと考えながら授業をしています。生徒の宿題の実施状況を見て、丸がたくさんある場合、経験の少ない指導者は「自分の指導で生徒ができるようになった」と勘違いしますが、ある程度経験のある指導者であれば、必ず疑いの目を持ちます。「この子の実力で、このレベルの問題は解けないはずなのに、丸がついているということは、何か盗み見してやったな」と推理します。おもむろに「これ何も見ずにやったの?」と聞くと、なにくわぬ顔をして「はい」と答えます。私も意地が悪いので、宿題の中から絶対に解けないであろう問題をピックアップして「じゃあこれ解けるよね?」と解かせます。案の定、自力では解けません。そこでもう一度、「宿題を何も見ずにやったの?」と聞くと、「見てやりました」と白状します。解答集を見たのか、辞書を見たのかで、罪の重さは全く違いますが、あえてそこは聞かないようにしました(聞かずとも分かるので)。わからない問題があったときに、辞書なり、参考書なりで調べることを否定しません。丸付けで答えを写すという生産性のない作業をするのではなく、自力で解決しようとしているのですからむしろ喜ぶべきことです。しかし、何かを見て解いたのであれば、その形跡を残さなければならないのです。「ここは調べて解きました」という形跡を残さなければ、「何も見ずに解いた問題」も「助けを借りて解いた問題」も同じ丸として処理されてしまいます。同じ丸で処理された場合、「助けを借りた」という事実、つまり「自分一人の力では解けなかった」という事実はすぐに忘れ去られてしまうでしょう。実力の無さと向き合わずに「丸がついている」という安心感だけを得ようとしてはいけません。問題にたくさんのバツをつけなければならないことは、ときに空しい気持ちになりますが、それでも自分の実力ときちんと対峙するためには、「この問題は自分一人では解けなかったので、調べました」という形跡を残さなければならないのです。自分の学力を偽れば、結局そのツケは自分に返ってくるのですから。
ここ数回の中2の国語の授業では、いつも以上に厳しく話をしています(国語だけではなく、数学も、英語もですが…)。というのも、絶対に解ける問題を落としているからです。なぜ絶対に解ける問題を落としているかというと、それは単純に文章を読んでいないからです。解答欄を埋めるために、それっぽいところをただ眺めているだけです。文章を読み込もうとせずに、わかりやすいところだけを拾って読む中学生は非常に多いです。小学校時代はそれでもよかったのかもしれませんが、もう中学生なのですから次元の高い読み方をしていきましょう。読み方の浅い子どもに、深く読ませる簡単な方法は、声に出させることです。いわゆる「音読」というやつですね。声に出し聴覚情報をも得ることで、目で追うだけでは気がつかないことに気づくことができます。さらにシャーペンの先で文章を追いながら読めば、効果がより高まります。実際、昨日の授業で音読させると、解答となる部分を簡単に見つけることができました。本人も声に出して読みながら、「ここに答えが書いてあるじゃん」と気づいたようです。
高校入試の過去問に手をつける時期になると、生徒が分からない問題を持ち、「この問題が分からなかったので、解説を見たんですけど、解説を読んでも分かりません。」とやってきます。そこで私が解説の文章を声に出して読んであげると、「あぁ、そういうことか」とすぐに気づくのです。問題の解説のような無機質なものを見たとき、子どもたちはそこから意味を見出そうとしません。大人が抑揚をつけたり、間を置いたりして、無機質なものに意味を与えてあげることで初めて、正しく認識することができるのです。しかし、これからも大人が意味を与えて続けてくれるわけではないのですから、大人としては、子どもが自分で意味を見出せるように導いてあげることが重要なのではないでしょうか。