青凜館は国語の指導に力を入れています。国語の授業だけ受講しても、青凜館にお通いいただく意味は十分にあると思っています(かといって、英語や数学、あるいは理科・社会に妥協しているわけではありません)。そもそも国語ほど点数が上がりにくいものがありません。他の科目は中学校3年間の知識が問われるのに対して、国語は生まれてからどんな言葉を聞き、どんな言葉で話し、どんな文章を読み、どのようなことを考えてきたのかが問われます。大袈裟ではなく、国語力とは15年生きてきて、自分が蓄積してきた日本語力が試されていると思うのです。ですから、ちょっとやそっとじゃ成績は上がりません。簡単に上がらないからこそ、多くの塾で国語はぞんざいに扱われがちになります。国語の授業数が明らかに少なかったり、あるいは学校の教科書の内容を塾でも指導し、子どもたちの国語力を根本から高めようという気すらないのが現状です。話は多少変わりますが、青凜館では国語・英語は教科書の準拠テキストは使いません(というよりも全教科、準拠ではありません)。学校で十分に読み込むはずの「走れメロス」を塾で再び勉強して、意味がありますか?意味がないとは言いませんが、少なくとも青凜館は「補習塾」ではなく、「進学塾」ですので、学校の授業をまともに聞かない子を対象にしていません。ですので、準拠テキストで定期考査という短期的な学力向上を目指すのではなく、長期的な視野で文法力や読解力の底上げをするために非準拠のものを使っているのです。
話を戻して、力を入れているというと大層なことをやっていると思われるかもしれませんが、やっていることは「文章を正しく読み取る」という当たり前のことだけです。正しく読み取るために、接続詞の前後関係を正しく読んだり、指示語の指し示す内容を追ったりするわけです。しかし、正しく読み取るために最も大切なのは接続詞でも指示語でもありません。国語において最重要なのは「言葉」の知識です。別に難しい熟語や慣用句を覚えないといけないというわけではありません。国語に出てくるありきたりな言葉・頻出の言葉を、正しい意味で知っているかが重要なのです。
「社会」あるいは「社会的」という言葉を説明できますか。言葉自体は全く難しいものではなく、何なら小学生でも当たり前に使います。「現代社会」「社会に出る」「社会貢献」などよく使いますが、本当にそれら「社会」を正しく認識しているでしょうか。この「社会」あるいは「社会的」という言葉は説明的文章では頻出なのですが、いざ子どもに「社会って何?」と聞くと、答えられない、または地理・歴史など「社会科」という科目自体を答える始末です。そもそも「社会」という言葉自体が非常に抽象的なもので、視覚情報としてとらえにくいため、「これが社会だ!」と指し示すことはできません。では入試において「社会」という言葉にはどのような意味があるのでしょうか。「社会」とはつまり、「つながりのある世界」です。人は一人では生きていけません。一人で生きていると思っている人も、必ずどこかで他者の影響を受けるものです。そのように人と人、あるいは人とモノがつながりあっている場所や状況を「社会」というのです。ですので「社会」ときたら「つながり」と考える言葉の知識がなければ、本文中の「社会」という言葉が曖昧でふわふわした存在になってしまうでしょう。「社会」が「つながり」ですから、「社会的」とは「つながりがある」とか「つながりの中の」という意味だと考えて構いません。
話はここで終わりではありません。人は昔から「社会」のなかで生きてきました。農作業をするのも家族総出、あるいは村という大きなまとまりで行っていました。農業は天候とのつながりが大きいため、天候不良になると大飢饉が起き、火山の大噴火が起きるとまた大飢饉が襲うというように、人と自然というものも切っても切り離せない関係でした。そんなつながりの大きい社会を一変するあるものが登場しました。それが「科学技術」です。科学技術が発達し、機械化することで少人数で、あるいは一人でも仕事ができるようになりました。また、天候の影響を大きく受けていた農業が、科学技術の登場により、天候の影響を受けずに行うことが可能となっています。ビニールハウスによる温度管理により栽培を早めたり遅らせたりすることや、ライトで日光を強制的に浴びせ育成を早めることなどはその一例です。また暑い夏の日は冷房をつけて、寒い冬の日は暖房をつけるなど、今や科学技術は人と自然を切り離す道具となっているのです。これまで自分はつながりの中にいるという意識だったのが、科学技術の登場によりつながりが希薄化し、自分は個人なのだという意識が生まれます。個人の意識を持つことで、それぞれが意見を出すこと、発信することが容易になります。たくさんある選択肢から好きなものを選ぶこともできます。しかしその反面、個人の意識が強まるがゆえに、「クレーマー」「モンスター○○」など必要以上に個人の優先を願う人が現れる結果となっているのです。
では人にはもはや社会性がなく、個人としてのみ生きているのでしょうか。それは違います。個人というものにスポットライトはあてられていますが、あくまでもそれは社会の中にいる個人であり、社会からはどうあがいても抜け出すことはできないでしょう。その証拠に、私たちは「自分たちが社会の中にいるのだ」と感じることができる出来事をいくつも経験してきました。その一つが「東日本大震災」です。遠く離れ、名前も顔も知らなかった、これまでつながりなどないはずの人びとが助け合い、支えあうという光景がそこにありました。「絆」という漢字が全てを示してくれています。やはり人はつながりの中にいるのだから、「共生する」という意識が重要です。
というような流れが説明的文章(論説文)のごくごく基本的な流れです。受験するうえでは当然知っておかなければなりませんが、「社会」という言葉一つとっても、子どもたちは何も知りません。子どもたちは「社会」に疑問を抱きませんし、大人は「社会」を説明できません。そんな状況で国語力の向上などはかれません。結局、「国語はセンス」といわれるに至っているのです。そんな状況を変えるため、青凜館では国語指導を徹底していきます。