平昌オリンピックが閉幕して1週間です。選手の活躍に感動を覚えたのもまだ記憶に新しいのではないでしょうか。勝った選手も負けた選手も、インタビューを受けるのは恒例です。悔しさを露にしたり、喜びを爆発させたり、涙で言葉を発せなかったり、選手の表現は十人十色です。しかし、これらの言葉には共通している点があります。それは「論理的」であるという点です。オリンピック選手に限らず、プロの医者、プロ棋士など、プロと名の付く方々の語り口はおしなべて「論理的」です。
考えてみれば当然で、例えばスケート選手が早く滑ろうと思ったときに、「気合いだ」などと精神論で乗り切ることがあるでしょうか。プロの医師が難しい手術を成功するために、「その日の気分で術式を選ぶ」などということは決してありません。プロ棋士が第1手目を「どちらにしようかな」で決めることなどあり得ません。スケート選手であれば、足の運びを分析し、必要な筋肉を鍛え、上半身との連動性を高めるといった訓練をするでしょう。医師であれば、病状から考え得る最善の術式を決めて、イメージトレーニングをするでしょう。棋士であれば、先の展開を考えたうえで、これしかないという手を打つでしょう。つまり、プロは必ず「原因」と「結果」を意識しているのです。逆に言うと、何か困難に直面したときに、その原因を探ろうとしなければ決して一流にはなることができないのです。そして、この「原因」と「結果」つながり、もしくは物事の「相関」こそが「論理」であり、そう考えることが「論理的」だといえるでしょう。日ごろから「原因」「結果」「相関」を意識しているオリンピック選手の発言が「論理的」であることは納得できるでしょう。
「論理的」な言葉には説得力が生まれます。昨日の話ではないですが、何か欲しいものがあったときに、「お母さん、お金ちょうだい」では通用しません。ましてや幼児のように泣き叫んでも無意味です。説得するためには、「お金が必要である」ということに「論理性」を持たせなければなりません。「○○」を買いたいという理由や、「○○には他にはないこんな特性がある」という具体性や、「もし、今度のテストで90点取ったら買ってほしい」という条件を提示するべきでしょう。「お金ちょうだい」ではなく、「○○が欲しいんだけど、○○にはこんな性能もあって役に立つと思うんだ。だから、今度のテストで90点取ったら考えてくれないかな?」と言われるほうが、要求を受け入れやすくなります。「論理」を考える習慣がなければ、「結論だけ人間」「結果だけ人間」になります。社会に出たときにまともにプレゼンができなかったり、漠然とした説明しかできなかったりするのはこのためです。
「論理的思考」は一朝一夕で身につくものではありません。普段から考える習慣がなければ単純な思考しかできなくなります。入試に出てくる文章に隠れた論理(隠れているというよりも、見つけようとしないのかもしれませんが)を読み解いていくことは、社会に出て活躍するためには十分すぎるほどの訓練です。受験勉強なんかして何の意味があるの?とか、本なんか読んで何の意味があるの?とかいう子がいますが、その言葉には「論理性」のかけらもありません。受験勉強とは、人間力の形成の機会でもあるのですから、本気で勉強に取り組むことは何ら不思議なことではありません。