2024年3月4日
  • 須恵町にある高校受験専門学習塾

小説読解の難しさ

論説文と小説を比べたときに、多くの中学生が「小説のほうが簡単。書いてあることがわかるもん。」と言います。たしかに論説文と違い言葉にも堅さはなく、日常の風景を切り取ったものが多いのが事実です。状況も把握しやすいでしょう。しかし、本当にそうでしょうか。個人的には小説の読解は論説文のそれ以上に神経を使います。細かなキーワードを追う必要がありますし、何よりも物語の中に感情移入する自分を抑えて、客観的な立場をキープしなければなりません。文章に感情を一切入れず、事実だけを読み取ることが重要だと言われますが、それは一体どういうことでしょうか。

 

例えば「痛み」という言葉があります。普通、最もよく使われる痛みは「肉体的な痛み」を指します。腰が痛い、歯が痛い、頭が痛い、目が痛いなどです。しかし、痛みにはもう一つの側面があるのはお分かりでしょうか。それが「精神的な痛み」です。つらい、悲しい、寂しいなどの感情を「痛み」という言葉に乗せて表すことは日常茶飯事です。友達が「心が痛い」と言えば、「きっと何かつらいことや悲しいことがあったのかな」と推し量るはずです。その「痛み」を「肉体的な痛み」だと考えて救急車を呼ぶ人はいないでしょう(もちろん本当の病気であれば救急車を呼んでください)。このようにある言葉が直接的な意味ではなく、間接的な意味で使われていると、国語力のない子どもは字面通りの意味で受け取ってしまいます。それが「読めているつもりで読めてない」「分かっているつもりで分かってない」「解答がどこかずれている」という問題の原因になるのです。

 

以下の文章を見てみましょう。昨日の国語で使用したものの一部です。

「やはりあーちゃんといっしょに遊ぶことは気が重かったのだが、月日が流れるうちにそれは苦痛ではなくなっていた。彼の義足の金具の音も気にならなくなっていた。」

※あーちゃんは幼いころに電車にはねられて、以来義足で過ごしています。

 

この文章で問題となるのは二か所です。一つは「苦痛」がどのような種類の痛みなのか。もう一つは「彼の義足の音が気になる」とはどういうことなのかです。一つ目の「苦痛」は容易にわかるでしょう。以前は気が重かった、今は苦痛ではないということは、「苦痛=気が重い」となり、この痛みは精神的な痛みであることがわかります。義足のあーちゃんと遊ぶときには変に気を使うから気が重い(それが苦痛)ということです。では「彼の義足の音が気になる」とはどういうことでしょうか。静かな図書館の中でおしゃべりをしている集団がいたら、きっとその声が気になるはずです。普通「音が気になる」と書かれていれば、騒がしい声がする、奇妙な音がすると自らの耳で、肉体的に感じたときに使います。ではあーちゃんと遊んでいる僕は「義足の音がガチャガチャうるさいな」とか「義足から変な音がするな」と思ったということでしょうか。けっしてそうではありません。義足から聞こえてくる金具の音が気になるくらい、あーちゃんと遊ぶときには気を遣っており、それゆえ気が進まなかったという「精神面」を表現しているのです(ただしこの文章であれば、「~ではなくなっていた。~なくなっていた。」と同様の表現があるため、「気が重い=苦痛=義足の金具の音が気になる」と簡単につなげて考えることもできます)。ですので解答において「義足の金具の音が気になるから、あーちゃんと遊ぶことに気が進まなかった。」と書くのは誤りなのです。聴覚情報として入ってきた義足の音、それ自体が気になるわけではないのですね。

 

小説では「たとえ」というものが多用されます。直喩、隠喩、擬人法の類です。国語初心者であれば、まずは直喩を意識して読んでいきましょう。「~のような」「まるで~」などを見かけたら、言葉をそのまま受け取らず、「いったいどういう状況を表しているのかな」「何が言いたいのかな」と考えてみるのです。こうするだけで、今までさらりと流しながら読んでいた小説の世界が少しは変わるはずです。入試の文章では「あれ?」とか「どういうことだ?」と立ち止まらなければならない場面というのがいくつかあります。その一つが「比喩」だといってよいでしょう。これ以外にも数多くある大切なポイントに気づくことのできる受験生になれるよう、青凜館では日々細かな読解を行っています。

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