まずは言葉の定義から始めます。
・アウトプット(output):出力の意味で、勉強においては「問題を解くこと」を表します
・インプット(input):入力の意味で、勉強においては「知識を取り入れること」を表します。
学校の授業を考えてみると、授業の大部分がインプットです。問題を解く時間よりも、説明を聞いている時間のほうが圧倒的に長いのです。特に、社会や理科ではその傾向が顕著になります。また数学や英語においても、簡単な例題を申し訳程度に解くだけではないでしょうか。
では塾の授業はどうなのかというと、学校の授業とほとんど変わらないといえると思います。単元の説明に多くの時間を費やし、演習時間などほとんどありません。演習の多くが「宿題」に回されてしまうのです。ただし、学校の授業よりも明らかに授業時間が限られていますので、よりポイントを絞り、簡単に指導をしているために、子どもたちが「学校の授業よりも塾のほうが分かりやすい」と感じるのも無理ありません。しかし、正確には「学校の授業は時間をかけて深く指導しているから難しく感じ、塾では簡単にまとめて説明しているから分かりやすく感じる」といったほうが正しいかもしれません。学校の教科書で数ページを費やして説明している内容も、塾のテキストになれば1~2ページにまとめられているのです。
こちらの問題を見てください。兵庫県の公立入試問題です。
ボーリング調査を用いた地層の問題です。大抵の地層問題は簡単に解けるのですが、この問題に限っては教科書の知識、テクニックだけでは太刀打ちできません。問題集などの例題に出てくるような類の問題でもありませんので、ほとんどの受験生が困惑したでしょう。そして、困惑した受験生の多くが、「こんな問題初めて見た」「新傾向が出て分からなかった」と言います。本当に、初めて見たから解けなかったのでしょうか。新傾向だからでも足も出なかったのでしょうか。それは違います。決定的に足りないのは、日ごろの演習で「具体的」な問題を「抽象的」に変換する作業なのです。そもそも入試に同じ問題など出ません。今までにない角度からの出題などあって然りです。そう思って対策しておくべきにもかかわらず、それをやらなかったから解けなかったのです。
受験勉強で解く問題の一つひとつは「具体的」なものだといえます。その「具体的」な問題に対し、日ごろの練習から、問題作成者はいったいどんな力を試そうとしているのか、問題を解くために必要な力は何かなど分析し、「抽象化」するのです。そして、別の問題を解く際に、「抽象化」した事柄を当てはめていくのです。勉強ができない子は、1つの問題に対し、1つ解法を用意しておこうと考えます。そうすると100問の問題があれば100通りの解法が必要です。そんなことが可能なのであれば構わないのですが、たいてい途中でリタイアしてしまいます。一方、成績の高い子は、過不足無く揃えた武器を使い分け、多くの問題に立ち向かっていけるのです。そしてその子にとって、問題演習とは、持てる知識の使い方や組み合わせ方を学ぶ場なのです。
中学生の初めの段階で習得させる対義語の一つが「具体⇔抽象」です。具体的なものを見るということは、物事を深く見ることができる一方、微視的に見る傾向が強まります。反対に、抽象的に見ると、物事との距離ができる分深く見ることはできませんが、客観的に判断することができます。どちらの見方も重要です。どちらかに偏ってはいけません。具体的な判断と、抽象的な判断とを組み合わせて、正解を導いていかなければなりません。すべての科目は「抽象と抽象」の往還で成り立っているともいえるでしょう。大人になるということは、一種の弁証法的な見方をみにつけるということなのかもしれません。
今日の入試問題は、知識があれば解けるようなものではありません。その知識をいつ、どのように用いるのかを試されています(それは子どもたちだけではなく保護者や我々のような指導者の力量も試されているのかもしれません。なぜなら、入試や受験制度、教育の在り方というものが過去に例をみないほど大きく変化しようとしているのですから)。そしてその力を伸ばすためには、自ら問題に立ち向かって、体と頭で身につけるしかありません。問題を解くことは精神的に負荷のかかることです。できない自分に嫌気がさして、勉強から逃げ出したいと思うでしょう。でも今、問題に立ち向かっている自分は、何もしない自分よりも成長していることは確かです。そして中学の勉強なんかどんな子でも乗り越えられるのも確かです。結局、「やる」か「やらない」かが全てなのです。