2024年7月27日
  • 須恵町にある高校受験専門学習塾

指輪はいったい誰のもの?

「利益衡量」という言葉をご存知ですか。「りえきこうりょう」と読みます。普段の生活でなかなか使う言葉ではありませんが、法律を学ぶ人ならば一丁目一番地で学ぶ言葉です。「衡」も「量」も「はかりにかける」という意味を持っており、総じて、当事者や利害関係者の公益を比較して釣り合いを取ることを表します。

 

例えばAさんが高価なダイアモンドの指輪を持っています。Xさんは週末に結婚式に参列するため、Aさんにお願いをしてその指輪を借りたとします。しかし、お金に困っていたXさんは、Bさんにその指輪を売ってしまったのです。それを知ったAさんはBさんに指輪を返すように言いましたが、Bさんは自分が買ったので返しません。Xさんも購入代金を借金の返済に充ててしまったので一文無しです。さて、指輪はいったい誰の物でしょう。

 

AさんにもBさんにも、所有権を主張する根拠があります。Aさんはもともとの所有者で、Xさんに指輪を貸しただけですし、BさんはXさんとの間で指輪を合法的に売買したのです。Xさんが悪いのは言うまでもありませんが、AさんもBさんもどちらも被害者です。裁判になった場合、あなたが裁判官ならば指輪をどちらのものにするでしょうか。

ここで重要なのは「利益衡量」なのです。それぞれの事情を鑑みて、どちらの利益を優先すべきかを決めなければなりません。指輪を仲良く二人で分けましょうなんて判断を下すことは許されません。判断するためには、物事を多角的に見ることが求められます。AさんがXさんの悪意に気づいていたかもしれない、Bさんが指輪がAさんのものだと知っていたかもしれない、BさんはXさんがお金に困っていたことを知っていたかもしれないなど、深く突き詰めていく必要があるのです。形だけ見れば、単なる貸借と売買ですが、一つひとつ異なる事情と思惑があるのです。それは裁判に限らず、私たちの日常のあらゆる場面でも同様です。洋服を買いに行ったら、デザインだけでなく、色や耐久性や値段などあらゆる事情を考慮するはずです。テレビを買う時も、車を買う時も同じことが言えるでしょう。私たちは、「利益衡量」という言葉を知らなくても、生活の中で数多くの「衡量」を行っているのです。

 

では、私たちにとって関心の薄い問題であればどうでしょうか。テレビや洋服の購入は私たちの衣食住に大きくかかわるので、必要かつ十分な「衡量」を行うでしょう。しかし、直接かかわりのない問題となると、多角的に見ようとせず、与えられた情報を鵜呑みにするケースが少なくありません。ネット上でデマが拡散したり、断片的な情報に踊らされたりするのも、ミクロな見方しかできないことに由来するのです。先の例のXさんと同じように悪意を持った人間は数多くいます。そのような人間から利益を守るためにはどうすればよいでしょう。答えは簡単です。勉強すればいいのです。見識を広げるために手っ取り早い方法は勉強することです。世界や社会について知りましょう。勉強することで、今まで見えなかったものが見えたり、別の見方ができるようになるのです。

 

昨年の公立入試の国語の本文に以下のような記述があります。

《人生の節目節目で、われわれはいろいろな選択や決断を迫られますが、その決断も複数ある選択肢のどれでもいいや、 箸の倒れた方向へ行こう、という選択や決断ではうまくゆきません。そんなやりかたは試験のヤマカンと一緒です。自分は何をしたいと思っているのか、どの程度のことをしたいと思っているのか、あるいは今選ぼうとしていることが自分の性格に合っているのかどうか、その方向を選べばその後の生活はどのような方向へ向かうのか、それで後悔しない方向なのかどうか、などということについてあらかじめある程度の考えを持っていないと、見当をつけられません。

見当をつける、というのは扱っている問題を一度手元から離して、遠い距離から眺め、他の問題とのかかわりがどうなっているかという大枠を知ることです。全体像を掴(つか)むことです。英語ではパースペクティブと言います。日本には大局観という言葉があります。また、英語から輸入され、日本でも定着していることわざに、「木を見て森を見ず」というのがあります。あるいは「井の中の蛙(かわず)、大海を知らず」ともいいます。細部にこだわって見当をつけられない愚かな状態のことを笑っているのです。部分的な、狭い知識だけでは全体がどうなっているのかは判断出来ません。大きな立場から見ると、それまで見えていなかったことが見え、わからないこともわかるようになります。》

(山鳥重『「わかる」とはどういうことか―認識の脳科学』)

 

この著書はとある大学の入試問題としても出題されたことのある有名なものです。ある種、大人から子どもへのメッセージとも受け取れます。これからを担う若者にとって必要なものとは何かということに関するヒントを与えてくれているようにも思えます。昨年の入試後、この問題または文章に対して肯定的な意見が多くありました。私も、いい文章だなという印象を受けました。ただ、それと同時に、「普段の指導の中で、自分の言葉で、知識を得ること、物事を多角的に見ることの重要性を伝えられているのか」という不安に苛まれたのも事実です。

 

今日は、変化のスピードが速く、うねりの大きな時代だといわれます。その動きは今後一層加速していくでしょう。未来がどうなるかなど、正確に把握することなど不可能です。だからこそ目の前の物しか見えない(正確には見ようとしない)のであれば、時代に取り残されてしまうでしょう。でも、子どもたちにはまだ時間があります。モラトリアム(成長して、なおかつ社会的義務を猶予される期間)の真っただ中にいるのです。モラトリアムの良さを生かすも殺すも自分の行動次第です。子どもたちは勉強しましょう。成績をげるために、志望校に合格するために、そして見識を広げるために、とにかく勉強しましょう。

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