「まずかいよりはじめよ」と読みます。多くの人が、高校の古文で学ぶでしょう。
『戦国策』の中で、「賢臣を欲するのなら、まずは自分のようなつまらない者を優遇せよ,そうすれば私以上の賢臣が次々に集まって来るだろう」と言ったことから転じて、「物事をやろうとするときには、まず手近なことから手をつけよ」という意味で使われます。
さて、中学生であれば、まず何から始めるべきでしょうか。当然ですが、学校の授業をきちんと受けることから始めましょう。本来であれば、学校の授業だけで、志望校に合格できるというのは理想ですが、現実はカリキュラムや勉強に集中できる環境が整っていないため、難しいといえるでしょう。でもそんな中でも学校の授業はまじめに受けなければなりません。過去に、「学校の先生」を軽視し、「塾の先生」だけに敬意を向けるような子どもに数多く出会いました。私の学生時代にも、学校の授業中に塾の宿題をやったり、学校の先生に対して、「塾では覚えなくていいといわれました」などと、あたかも塾の先生をヒエラルヒーの上位に置いているかのような発言する子どもはいました。(実際はヒエラルヒーの下層にある職業だと思います・・・)
塾に通う上で、必ず意識してほしいことが二点あります。
まず、「学校の授業をまじめに受けることができない子が塾に通うことほど、無駄なことはない」ということです。
塾とは、あくまでも、「学校の授業では物足りない、もっと勉強したいという知識欲にあふれた子が通うべきところ」です。でも実際はどうでしょうか。対して学校の授業を聞きもしないで、教科書もまともに読もうとしないで、授業がつまらないだの、先生の話が眠いだの、勉強しても将来どうせ使わないだの逃げの言い訳ばかりしていませんか。そのくせ、塾にだけは一人前に通おうとする。塾は生徒が離れないよう、楽しい授業を提供するでしょう。「子どものペースに合わせて…」という甘い言葉を多用し、たいして実力の付かない演習ばかりを繰り返すでしょう。高校入試問題を見たことすらなく、狭小的な視野しか持たない大学生講師が、生徒に嫌われたくないという意識の下、優しく指導してくれるでしょう。クラス分けをして、同じ学力の子どもを集め、低学力の中で安心感、連帯感を生み出し、受験にあたり当然持っておくべき知識が不足しているという現状に対する危機感を欠如させるでしょう。
よって、学校の授業を真剣に受けることができない子は、塾に通う資格がないと断言できます。
二点目は、「学校」と「塾」は切り離して考えなければならないということです。はじめに述べたように、学校の先生を目の前にして「塾では・・・」などと発言してはいけないということです。学校の先生は、どの子が塾に通っているかきちんと把握しているかもしれませんが、先生の前で「塾」の話を持ち出してはいけません。それは大人に対する「礼儀」です。もし先生から「塾」について聞かれれば、その時は答えればいいだけで、こちらから一方的に「塾」の話を持ち出すべきではありません。
学校には学校のやり方、先生には先生のやり方というのもがあるのは当然です。にもかかわらず、そこを否定することに何らメリットはありません。そもそも社会の中で、TPO(時・所・場合)を見極めることは必須の能力です。学校の先生は決して「敵」ではありません。敬意をもって接すれば子どもたちが考える以上に、大きな「味方」になってるものです。
学校で、通知表の評定を取るために先生に対していい顔をするのは決して悪いことではありません。大人に好印象を与えることができるというのは、高貴な能力なのです。少なくとも、反抗的な態度を見せつけ、悪い印象を持たれるよりもはるかに優れています。
義務教育は無償です。無償だからこそ、子どもは(ひょっとすると大人までもが)義務教育を軽視しがちです。塾の中には学校を軽視しているものが多いのは紛れもない事実です。(←この辺に関してはまた別の機会に論述します)
でも、誰が何と言おうと、「学校の授業」は大切にしなければなりません。長年の歳月をかけて生み出し、発見した知識をタダで学ぶことができるのです。中学校とは、現代の資本主義経済の仕組みからは完全に逸脱した場所です。積極的に学校で学ぶことはメリット以外の何物でもありません。
今日のまとめ
「学校の授業を何よりも大切にしなさい」