塾で働く人間の喜怒哀楽のほとんどは、生徒に由来します。喜び、怒り、悲しみ、楽しみは、生徒によって呼び起こされるのです。過去最高の成績を取ったり、これまでできていなかった問題をクリアできたり、あるいは志望校に合格したときの喜びだったりは、それはもう言葉に表せないほどのものです。ある意味、その喜びを味わいたいがためにこの仕事を生業にしているともいえるでしょう。また成績が着実に上がっている生徒や、やる気に満ち満ちている生徒を見ると、「この子はどこまで伸びるんだろう」「十分トップ校が狙えるな」とワクワクするものです。自分の力で未来を開拓している子どもたちほど、輝いている存在はいません。中学生にはとてつもなく大きな未来があります。その未来に向けて必死に自分を変えよう、自分を伸ばそうとしている姿に最も影響を受けているのは、外でもなく私自身でしょう。夏期講習でも、志望校に合格するために勉強することを最優先に取り組んでいる生徒、これまでの不勉強を何とか取り戻そうと不器用ながらに時間をかけて勉強している生徒、部活との両立に苦しみながらも、時間を作り出してきっちりと仕上げてくる生徒がいます。一見それらは当たり前のことのように思えますが、中学生は「当たり前」を嫌う反抗的な時期でもありますので、なかなかできる子は少ないものです。
そしてここ数日は、生徒に怒り、悲しむことが多くあったように思います。生徒が宿題をやってこない、忘れ物がある、無断で休む、質問に対して無言を貫く、再テストを受けない、教えたことを簡単に忘れる、行動が遅い、言葉づかいが悪い、塾の設備を大切に扱わない、自分以外に責任を転嫁する、重要な報告をしていない、確認が不足しているなど、様々なことが一気に押し寄せた1週間でした。もともと授業の中で生徒にはグチグチ言っていますが、ここ最近はもっと嫌な人間になっていたと思います。できるだけ勉強の中身以外のことを言いたくはありません。塾は勉強を教えるところであり、そのために授業料を頂いているわけです。勉強だけに集中するべき場所にもかかわらず、私から勉強以外の礼儀やマナー、無断欠席、物を大切に扱いなさいなどと言われるのは、かなりのことです。もし、礼儀やマナーを身につけたければ、それはうちではありません。当塾は礼儀やマナーを身につけさせることを売りにはしておりません。
また当塾は体験生や夏期講習生に「入塾しないの?一緒に頑張っていこうよ」などと声をかけて、積極的に入塾をすすめることはしません。まれに夏期講習以降も続ける予定なのかを生徒に尋ねることはありますが、もしそこで生徒本人が「分かりません」や「ありません」と答えた場合は、次に同じ質問をすることは二度とありません。それは本人が塾に通うこと、つまり成績を上げることを望んでいないのですから当然です。子どもたちには塾に入るのかを決める権利があるわけですので、私からどうこう言うべき問題でもないでしょう。「これから頑張っていこうね」「君ならきっと成績が上がるよ」などと生徒のやる気を引き出せば、入塾してくれるということもあるかもしれませんが、そんなことで抱いたやる気は簡単にしぼんでしまいます。当塾では子ども自身に入塾を決めてもらいます。「誰かから言われたから入塾をする」ということは、塾が嫌になったときに、「別に自分から塾に入ることを望んだわけじゃないから」となることでしょう。生徒によっては、ワイワイ、ガヤガヤ、楽しく勉強するような塾の方が大きく成長することも考えられます。そのうえで夏期講習のみ通われている方で今後も継続して通うことを希望される方は、教材の準備等ありますので8月中にお知らせください。希望されない場合はこちらからしつこい勧誘をすることはありませんのでご安心ください。
最後に、ここ最近は「勉強する意味」をずっと考えています。これまでも生徒から「勉強って何のためにするんですか」「私は将来海外に行かないので、英語を勉強する必要はないと思います」などと言われることがありました。そのたびに「勉強する意味なんて考えてないで、できない問題をできるようにする努力をしなさい」「将来のことなんて分からないんだから、勉強しなさい」と言ってきました。私は幸か不幸か、学生時代に「勉強する意味」というものを考えずに大人になりました。勉強をすることは当たり前であり、毎日部活をやっていても、学校の先生が好きになれなくても、「勉強をしない」「勉強はそこそこで構わない」という選択肢だけは持ち合わせていませんでした。恥ずかしながら、今この年になって「勉強する意味」と向き合っています。勉強とは少し違いますが、自分の頭で考えられる人間、努力できる人間、努力の仕方を身につけている人間は、社会から必ず必要とされます。人間の仕事がロボットに奪われるような時代においては、なおさらそうだといえるでしょう。「考える」ことは「生きるための武器」となり得るのです。その「考える」時間を与えてくれるのが、勉強なのかもしれません。人生には立ち止まることも必要です。私自身も何度も何度も立ち止まってきました。そしてそのたびに「自分には何もない」という思いが溢れてきました。何もないからこそ、将来のためには勉強するしかありませんでした。塾で働く人間として、大人として、未来のある子どもたちが「勉強をしない」という選択をすることほど悲しいことはありません。やはり、塾の人間はこれまでも、これからも、子どもたちの一挙手一投足によって心を揺さぶられ続けるのでしょう。