昨日の英語の授業は小テストの内容で1時間以上を消費し、テキストに入ることはありませんでした。小テストの出来があまりにもひどく、話にならなかったからです。青凜館の小テストは「英単語」と「英作文」で構成されています。「英単語」は、15個の単語を事前に覚えてきて、そのうち10個の単語を書かせます。出題範囲が決まっており、ただ単語を書くだけですので、どんなに英語ができない子でも勉強すれば満点がとれます。「英作文」は基本的な日本語の文が5つ書かれており、それを英語に直すというものです。実力問題ではありますが、すでに学習した内容ですので全く書けないということはあり得ません。それが昨日のテストでは、英単語は4問もミスをする、英作文は1つも合っていないという始末でした。英作文が惜しいところまでかけているのであればまだ同情の余地はあるのですが、正解まではかなり程遠かったので、そこから私のもぐもぐタイムならぬ、ぐちぐちタイムの始まりです。自分で言うのもなんですが、このぐちぐちタイムに突入したらかなり面倒くさいです。終始、私からの「なぜ?」「どうして?」「じゃあどうするの?」などという質問が飛んできます。例えば、満点取れるはずの英単語のテストで4問も間違えたことに対して、「なんでこんなに書けていないの?」と聞きます。それに対して「勉強しなかったからです」と言います。まぁそうなるでしょう。そんなことはわかっています。普通であれば「じゃあ、次からは勉強しなさい」で終わるところですが、私は引きません。「なんでテストがあるのに勉強しないの?」と聞くと、生徒は黙り込みます。この黙り込むというのも認めません。黙り込むという行為は、真相究明を妨げる行為だからです。もしかすると家の手伝いが忙しくて、とてもじゃないくらい勉強時間が確保できないのかもしれません。もしかすると、平日も土日も部活に明け暮れ、寝る時間もまともに確保できないのかもしれません。あるいはもしかすると勉強時間は十分あるにもかかわらず、何かしらの理由で勉強をすることから逃げているのかもしれません。であれば勉強から逃げてしまう理由を探さなければ、きっと同じことの繰り返しで時間が過ぎていくだけです。とにかく私は塾に通っているのに勉強をサボることに関しては厳しいです。塾には勉強をしに来ているにもかかわらず、それをしないということは、決して許されません。もし、勉強しなくても許してもらえる塾なのであれば、そんな塾に存在価値はありません。
授業途中、この生徒はとても悔しそうな顔をしていました(それは当たり前ですね。この期に及んでへらへらしようものなら、それはもう私にはお手上げです)。この子の名誉のために言いますが、本人が全く頑張っていないというわけではありません。ひょっとしたら同じ中学校の同級生の中では勉強を頑張っているほうなのかもしれません。塾講師というのは、子どもたちの努力を間近で見ている存在ですので、どうしても子どもたちが「頑張っている姿」に満足してしまいがちになります。たとえ定期考査で結果が出なかったとしても、生徒が頑張って勉強したから、それだけでいいんだ、と。きっと次は結果につながるだろう、と。しかしながら、受験において「その子がどれだけ頑張ったのか」とか「どれだけ時間をかけたのか」とか「どれだけの問題を解いたのか」ということは全く考慮されません。ただ単にその子の内申点とテストの点のみで判断されるものです。努力していなくても、点数が高いほうが合格するのが入試なのです。ですから、ある程度は生徒の頑張りを認めつつも、テストの結果というものに対しては冷徹でなければならないと思っています。点数がとれるはずの小テストで点が取れないのは絶対にダメです。ダメなものはダメなんです。少なくとも学習塾においては、ご機嫌をうかがって、子どもたちに忖度してはなりません。精神的な弱さ、知的な弱さ、注意力の弱さ、体力の弱さ、集中力の弱さ、行動力の弱さ、向上心の弱さなど、子どもたちの「弱さ」を目の当たりにしたときは、それを明確に示さなければ、それに気づかないまま、あるいは気づかないふりをしたまま生きていくことになるでしょう。それは決して子どもたちのためになりません。
さて、大事なのはこの後です。私に説教されたからと言って、落ち込んでいる暇はありません。落ち込んだりうじうじしたところで、勉強ができるようにはならないからです。できるようにするためには何をするべきかということは話したつもりです。新しいことに取り組むのも大事ですが、まずは授業の復習をするとか、宿題を丁寧にやるとか、丸付けを正確にやるとか、当たり前のことを確実に行うのです。春から何度も言ってきたことです(にもかかわらず、そのことがまだ身についていないことの原因は私にあります。私の指導力の問題です。単純に生徒にきちんと伝えることができなかったのです。毎回の授業で同じことを言ってきたつもりではありましたが、子どもの心には届かなかったのです。これからは少しやり方を変えてみようと思います)。いずれにしても、次回の授業における彼の姿が大事であることは間違いありません。中間考査が終わって気が抜けるタイミングだからこそ、ダメなやり方を放置せず、正していくべきなのです。