だれしも「赤ちゃん」という時代を経験しています。本人は「赤ちゃん」時代の記憶はないでしょうが、親や年上の兄弟などは、鮮明に覚えているものです。あいにく私には子どもはいないのですが、姉の子ども(いわゆる甥っ子)を見ていると、どんな時も全力で泣き、全力で笑い、全力の愛想で構ってほしいとアピールをしてきます。全力で泣かれるがゆえに、うんざりすることもあるかもしれませんが、全力の笑顔を見せてくれるがゆえに、可愛くて仕方がないのでしょう。このように、「赤ちゃん」というのは「手を抜くこと」を知りません。0か100かの世界で生きており、何をするにも全力でぶつかってきます。
それがいつしか簡単に手を抜くようになっていませんか。「ばれないだろう」と思って丸付けを適当に行ったり、面倒くさいという理由で、やるべきことを雑に処理したり、中学生はそんな手抜きを当たり前のように行っているのです。「手を抜く」ことのすべてが否定されるべきものではありません。大人はごく自然に「手を抜く場面」と「全力で取り組む場面」というのを切り替えています。そうでもしなければ知力も体力も精神力も持ちません。ある意味、手の抜き方を覚えることが大人になることだともいえるかもしれません。しかしながら、青凜館では手を抜くことは許されません。少しでも手を抜こうものなら私の表情は険しくなります。部活があるからとか、やったけどできませんとか、そんな言い訳は通用しません。部活をやることも、習い事をすることも、塾に入ることも、すべては自分がそれを選択したのですから、選んだ以上は全うするべきです。あいにく、青凜館は他塾とは違い、「子どものペースに合わせます」とか、「最短距離で合格に導きます」とか「楽しく勉強します」などという文言をうたっていません。このような指導をお求めであれば、青凜館ではなく他塾をおすすめします。しかし、もし「本気で成績を伸ばしたい」とお考えならば、青凜館ほどふさわしい場所はありません。ここには勉強に集中できる環境がありますし、集中して勉強できる生徒しかいませんので。
先日、中3の授業で「社会的」「個人的」の話をしました。この二つの言葉は入試頻出のものなのですが、受験生はその意味をあまりよく知りません。「社会的」とは、簡単に言うと、つながりがあることです。そして「個人的」とは、つながりがないことです。入試ではどのような文章で登場してくるかご紹介します。日本では、弥生時代に稲作が行われ、ムラでは住民が協力して農業を行いました。ムラとは一つの社会であり、その様子は社会的であるといえます。20世紀においても、ご近所同士、町内会などの社会的なつながりは健在でした。醤油を切らしたらお隣さんにもらいに行くなどという話もあるほどです。しかし、21世紀に入り、それらの社会性は急激に薄らいでいきます。ご近所同士のかかわりも希薄で、アパートに住んでいたら隣にどんな人が住んでいるか分からないというのは普通です。町内会の活動も縮小しているでしょう。人々のつながりが希薄化すると、孤立という状態に陥ります。お年寄りの孤独死、悩みをだれにも相談できずに命を絶つ、ネットという場所での誹謗中傷などの問題が生じるのも「社会性」がなくなっているからではないでしょうか。ではこれらの問題を解決するにはどうすべきでしょうか。それは「社会性」を取り戻す以外にはありません。お年寄りのためのコミュニティをつくる、相談窓口をつくるなどの解決策となるでしょう。「社会的」から「個人的」になることにより問題が生じたのであれば、再び「社会的」へと回帰するべきだ、という結論となるのです(なんとも単純かつ、短絡的な発想ですが、事実このような内容の文章は多いです)。
このように、国語の説明的文章では、「原点回帰せよ」という結論に達することが少なくありません。ではこれを中学生に置き換えてみましょう。もともと何事にも「全力」で取り組んでいた赤ん坊が、「手抜き」を続けることによって、勉強ができない事態に陥ってしまったのなら、再び「全力」で取り組む以外にそこから脱却する道はないのだ、といえますよね。ましてもし親に授業料を出してもらっているのであれば、全力で勉強するのは子どもの当然の務めです。子どもたちの全力をはかる絶好の機会が一か月後にあります。保護者の皆様は、子どもたちが中間考査に向けて、どれほど全力で勉強に取り組めるかをぜひ見てあげてください。