幼児から小学生のときは、知的好奇心が高い時期です。「あれな~に?」と聞いたり、すぐ手で触ったり口に入れたりします。良くも悪くも多くの、身のまわりの出来事一つひとつを知識として吸収していきます。ただしそれらは断片的、不連続的な知識であって、活用するのには不便です。その後子どもたちは、中学、高校と進学し、今まで以上に広く、深く学ぶようになります。そこでこれまで点と点だった知識をつなぎ合わせる訓練をしていきます。今まで培ってきた知識を、社会に出て活用しうる形に変えていくともいえます。正しく学び、十分な時間をかければ、より巨視的な目を持った人間になるのです。
しかし、現代の子どもたちは忙しさに追われています。学校、部活、習い事、LINE、YouTube、twitter、facebook、マンガ、ゲーム、テレビ番組・・・どんなに時間があっても足りません。しょうがないから夜更かししてでも、スマホやテレビにかじりつきます。生まれたときから、ケータイやインターネットに囲まれているので無理ないでしょう。科学技術の恩恵をたっぷり受けながら成長してきた子どもたちです。しかし、それゆえに、ただただ利便性の快楽のみを味わい、引き換えに創意工夫の機会が減らされているのは紛れもない事実なのです。
子どもたちが勉強に費やす時間は微々たるものです。忙しさによるしわ寄せは、たいてい勉強時間に向けられます。より素早く、効率的に学習しなければ、楽しい時間が削られてしまいます。そのときが楽しければ、多少の睡眠時間の減少は厭わないのです。そしてそんな現実に目をつけ、教育ビジネスも「やさしく子どもに寄り添うこと」に注力しています。「子どものペースに合わせます」「やる気を引き出します」「楽しく勉強します」「最短距離で合格へ」などの安価な謳い文句が躍るのも無理ありません。あたかも、「まだまだ子どもなんだから、勉強の大切さなんて分からなくてもいいんだよ」と子どもたちを甘やかしているとしか思えません。
子どもたちは、よく「効率的」に勉強すると言います。一般的に、「効率的」という言葉は良い意味で用いられます。辞書で引くと、【効率的:手間ひまを無駄なく使うこと】と書かれています。つまり、無駄を省き、費やす労力と釣り合う成果を期待する意味合いがあります。しかし、子どもたちが使う「効率的」には、ただ単に「無駄な勉強をしたくない」と意味しか込められていません。「海外で働くわけじゃないから、英語なんて勉強する意味ない」とか、「古文とか今の人は使わないから、勉強しなくていい」とか言うのも、根底に「無駄なことは勉強しなくてもいい」という思いがあるからでしょう。難しいことから目を背け、「これは私には必要ない」と言い訳をします。チャレンジしないうちに、「どうせやってもできない」と諦めます。「手を抜いて受け流すこと」が蔓延しているのです。「必死に勉強すのはダサい」「そこそこの勉強で成果を出すことがかっこいい」と思っているのです。そして学習塾においても、教養や複雑な原理原則を無視して、分かりやすいところだけを、分かりやすい形にして指導しているのです。では本当に「無駄なことは勉強しなくてもいい」のでしょうか。
答えは「NO」です。そもそも何が無駄で、何が必要かなんて誰にも分かりません。世の中には無駄なことなど山ほどあります。それらをすべて否定していたのでは、きっと微視的な人間になるでしょう。さらに言うと、一見無駄に思えることに意味を見出すこと、意味を付け加えることが大人の役割ではないでしょうか。例えば、営業の仕事において、お客さんから断られることは日常茶飯事です。自分の商品に必要性を感じていないのです。それでも買ってほしかったら、自分の言葉で商品の意味を熱弁するしかありません。「なぜあなたにこの商品が必要なのか」「これを買ったらどう良くなるのか」をきちんと説明します。「無駄なもの」を「必要なもの」にするために大人たちは毎日額に汗しながら働いているのです。
昨年の国語の入試問題に三浦綾子さんの『千利休とその妻たち』が題材として使われました。その三浦さんが別の著書『わが青春に出会った本』で次のことを述べています。
「土の上にまいた水が直ちに乾いてしまったとしても、その水が土地を潤したことだけは間違いなく事実である。毎日毎日読む本が、何の役に立たないようでも、知らぬ間に地下水のように心の底を潤すものになるのである。」
子どもの「勉強なんて意味ない」という言葉に対し、「ちょっと待て」というのが周りの大人の責任です。勉強する意味は千差万別です。自分の考えが他人にも当てはまることなど稀です。ですが、子どもたちに「なんで勉強するの?」と聞かれたときに、「私の考えはこうだよ」と言えるぐらいにはしておくべきです。でなければ子どもの知的欲求はますます衰退していくでしょう。無駄だと思えることでも、見えないところで人間のたくわえとなっているものです。ましてや子どもにとって勉強することとは、未来の自分への投資であることは言うまでもないでしょう。